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5.1 「少しずつやめていく」とは

対策の中には、対策という仮面を被った依存行為が存在します。たとえば、「いきなりはやめられないから、少しずつやめる」というものです。果たして、これは対策なのでしょうか。

実際、医療の現場でも、当面の目標を「まずは減らす」に置くことがあります。公式の治療プログラム自体が、目標を本人が決める作りになっているからです。治療につながり続けることを、何より大事にした設計です。

でも、診察室の外で、誰の管理もなく、自分で自分に出した「少しずつ」の許可は、別のものです。それは対策を選んだのではなく、やめない方法を選んだだけ。同じ「少しずつ」でも、医師が処方したものと、自分で自分に処方したものは、別の薬です。後者の処方者は——あなたの中の病気です。

「少しずつやめていく方法が、自分に合っている」と考えている人は、仮に病院の先生が「きっぱりやめてみましょう」と言ったところで、「自分には少しずつやめる方が合っている」と決めつけて、「ギャンブルをやめない選択」を取るのではないでしょうか。

このように、ギャンブル依存の呪いは、対策の仮面をかぶって、あなたをギャンブルから離れられないようにしているのです。

なお、もしあなたが通院中で、主治医と目標を決めているなら、それが最優先です。この本が問題にしているのは、診察室の外の、自己流の「少しずつ」だけです。

5.2 趣味を見つけてやめる、とは

「ギャンブルの代わりに打ち込めるものを見つけて、やめたい」という人を、たくさん見てきました。でも、実際に趣味を見つけて、その趣味のおかげで現在進行形でやめられている人を、私は見たことがありません。

ギャンブルの時間を別のものに置き換えるというアプローチ自体は、間違いではありません。他の対策を行いながら、並行して考えるのもいいでしょう。間違っているのは、趣味だけ・趣味メインでやめようとすることです。

第一に、「趣味でやめよう」という発想には、自分の問題として病気と向き合うという自覚が、まだ育っていないように見えます。実際、自己申告プログラムを出し、現金管理を家族にお願いした上で、並行して趣味を探している人を、見たことがありません。趣味でやめようとしている人は、そもそも具体的な対策を取っていないことが多いように思えます。それはどこかで、病気と正面から向き合うことから目を逸らしている、ということかもしれません。

第二に、趣味とギャンブルの関係の認識に、誤りがあります。趣味は、ギャンブルと完全には置き換わりません。趣味は、24時間するものではないからです。ギャンブルは、その合間合間に忍び込みます。パチンコは毎日開いていますから、趣味をしない日に打ちたくなる。競馬は今やスマホだけでできますから、没頭した趣味の、まさに合間に入り込んでくる。

そして、最大の理由はこれです。ギャンブルほど人を熱中させるものは、そうそうないからです。熱中と言えば聞こえはいいですが、その正体は、単純に依存です。勝負は、最初から見えています。

でも、「自分は趣味も持てないのか」と悲観しないでください。本当に夢中になれる趣味は、あなたがギャンブルと距離を取って、安定してきた時期に、自ずと見つかります。そうして見つかった本当の趣味を、大切にしたい——その気持ちこそが、「趣味を見つけてやめる」ということの、本当の意味だと思います。

5.3 ギャンブルをやめることに、理由をつけてはならない

「家族のために」「子どものために」——自分以外の誰かのために、やめようとする人がいます。ギャンブルをやめる上で、私たちの力の源のような言葉に思えます。でも、この決意には、危うさが潜んでいます。その危うさとは、ギャンブルをやめる理由がなくなってしまうときが来る、ということです。

ギャンブルが原因で、パートナーとは離婚するかもしれませんし、子どもはいずれ親元を離れ、自分の世界を持ちます。そのとき、あなたは頑張る目標を失うのです。

仮に、自分のギャンブルのせいで困るのが自分だけなら、別にギャンブルをしてもいい——もしそう思うのだとしたら、それこそ、心がギャンブルに支配されている証拠です。

もちろん、一念発起して家族に苦しみを打ち明け、「家族の生活のためにやめる」と決意すること自体は、とても素晴らしいことです。でも、いま書いたとおり、その理由は、あなたの人生のどこかで必ず消えます。その隙を、ギャンブルの呪いは見逃しません。ぽっかり空いた心の隙間に忍び込み、再び沼へと引きずり込みます。

ギャンブルは、理由もなく、ただやめる。それでも理由をつけるとしたら——「病気だから、やめる」。あなたは、虫歯で歯医者に行くとき、理由をつけますか?「虫歯になったから」「痛いから」行くのであって、「家族のために」と決意して歯医者に行く人は、ほとんどいません。ギャンブル依存症も同じです。病気だから、治す。それだけのことなのです。

5.4 「勝てないからやめる」の的外れ

「勝てないから、ギャンブルをやめます」と宣言して、やめようとする人がいます。しかし、この決意は、ギャンブル依存症という問題を、正しく捉えられていないのです。

なぜなら私たちはもともと、ギャンブルで勝てないということを、誰よりも知っているからです。この差は取るに足らない、どうでもいいような差、言葉のあやのようなものかもしれません。ですが、実際のところ、問題を正しく捉えるということは、非常に重要なことなのです。

「勝てないからギャンブルをやめる」ということは、裏を返せば、勝てるならやってもいいのか、ということになります。そして、ギャンブルの呪いは、その心の隙につけ込んで、ギャンブルをやらせようとしてくるのです。たとえば、令和7年7月7日——ゾロ目どころではない、7が三つ並ぶ日。勝てないことをやめる理由にしていた人の中には、「この日だけならいいかも」と思って、スリップしてしまった人もいたかもしれません。

5.5 ギャンブルの一部分たりとも肯定してはならない

「パチンコはギャンブルだけど、息抜きの面もある」「競馬は文化だ」——さんざん苦しめられてきたはずのギャンブルを、完全否定せずに一部肯定する人がいます。その心理は、何なのでしょうか。何百万円、何千万円と負けてきたのに、憎くはないのでしょうか。

気づいてほしいことがあります。肯定の材料は、決まって「あなた自身にとって」ではなく、「あなた以外にとって」の視点で語られる、ということです。産業として、文化として——。確かに、経済の一端を担っているという見方もできるかもしれません。でも、大切なのは「あなたにとって」です。パチンコの息抜きは、あなたにとって必要でしょうか。競馬のドラマは、あなたにとって必要でしょうか。社会にとって必要でも、あなたにとっては、必要ではありません。そして、なりたくて依存症になった人がいない以上、あなた以外の誰かにとっても、同じように苦しむ可能性がある以上、必要ではない可能性が高いのです。

はっきり言います。社会全体で見れば、ギャンブルが生む幸せも、少なからずあるとは思います。でも、それと比べものにならない不幸を、ギャンブルは生み出しています。確かなデータがあるわけではありませんが、確実に言えることだと私は思っています。家族の苦しみまで合わせれば、生み出される不幸は、幸せの何百倍、何千倍でしょう。

結局——まだ、ギャンブルを否定できないだけなのです。そして憎めないのは、ギャンブルの本質を見誤っているからです。

もう一つ、否定できない理由があります。「自分が悪い」と考えるほうが、実は心が安定するからです。ギャンブルにハマったのは自分のせい——そう考えれば、「自分の力でやめられるはずだ」という希望を残せます。

でも、その前提が、すでに間違っています。悪いのはあなたではなく、病気です。

5.6 ギャンブル関連の動画は、見ないほうがいい

やめるためにパチンコの動画を見る、という人がいます。打ちたい衝動を、動画を見ることで逃がしている——というような考えです。

私は、間違ったアプローチだと考えています。その行動は、「自分は見ても打ちたくならない」という認識の上に成り立っているからです。実際にそうなのかもしれません。でも、確証がありません。確証がないなら、見ないほうがいいのです。

また、単純に「見たい」という衝動を抑えられないだけなのに、「負ける動画を見て、ギャンブルする気を減退させている」という後付けの理由をつけて、動画を見ている人も、一定数いるように思います。

動画だけの話ではありません。出玉の結果一覧を見ること、新しい機種の情報を追いかけること、誰かの勝ち報告を覗くこと。「見るだけ」「覗くだけ」は、全部、衝動を引き起こすトリガーです。だから、近づかないことです。

5.7 「やめ方は人それぞれ」の落とし穴

「やめ方は人それぞれだ」「自分に合ったやめ方がある」と言う人がいます。人それぞれという考え方は、一見正しいように思えます。10人いれば10通りの考えがあるのは、そのとおりです。

しかし、この「人それぞれ」という考え方には、落とし穴があるのです。

たとえば、この章の冒頭で触れた「少しずつやめる」は、人それぞれの範囲でしょうか。依存の度合いが比較的軽いなら、少しずつもあり得るでしょう。でも重度なら、きっぱりやめるのが、まず推奨されるやめ方です。つまり、何でも「人それぞれ」で片付けてよいわけではないのです。

では、同じギャンブルで苦しむ仲間に対して、自分のやり方を教えずに、「人それぞれのやり方を探して」と言うときの心理は、どういったものなのでしょうか。それは、自分のやり方に踏み込んでほしくない、という心のあり方だと思います。「人それぞれ」と言った瞬間、相手はそれ以上踏み込めなくなります。自分のやり方の中身を、吟味されずに済むのです。

しかし、それは、ギャンブルをやめる上でベストの行動ではありません。対策を何重にも重ねてハードルを上げる方法でしか、やめられない——そのことを考えれば、やる対策とやらない対策の線引きに「人それぞれでしょう?」を持ち込むのは、やらない対策を正当化しているだけなのです。ギャンブルをやめるために本当に必要な方法は、今のあなたが取れない対策の中にあるのかもしれません。そしてその対策は、「人それぞれ」という感覚を持ったままでは、取り入れることができないのです。

これで、やり方の話は出揃いました。ただここで、「やめる」という言葉の意味を、一度作り直しておく必要があります。次の章の話です。

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